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廉価DVD:著作権の保護期間満了と販売認める 東京地裁

廉価DVD:著作権の保護期間満了と販売認める(東京地裁 MSN毎日インタラクティブ
http://www.mainichi-msn.co.jp/today/news/20060712k0000m040067000c.html

最初このニュースを見たとき、何が問題になっているのかピンとこなくて、「著作権は切れているのに決まってるじゃん。パラマウントは何を変なごり押しを」と思っていました。

 映画の著作権保護期間は、04年1月1日施行の改正著作権法で、50年から70年に延長された。販売会社側は「53年の作品は03年12月31日で著作権が切れた」として05年10月ごろから廉価版を販売。パ社側は、文化庁の「12月31日午後12時と1月1日午前0時は同時のため53年作品には改正法が適用される」との見解に従い、「ローマの休日」と「第十七捕虜収容所」の廉価版について差し止めを求めた

実は改正著作権法の施行前に「53年作品には改正法が適用される」という見解を出していたんですね。それは著作権法の条文にはどこにも書いていないけど、著作権にたずさわる仕事をする人が「必読」とする文献に掲載されていたようです。法律の条文以外の所に立法した官庁の見解が載ることがあるようで、法律の条文上曖昧な所は監督官庁の見解が有効とされるようです。

ローマの落日?(NEGLIGEEE MEMO-若手弁護士&若手会計士の日常-)
http://blog.livedoor.jp/negligeee/archives/50491178.html

著作権法に限らず「条文上不明なことは役所に聞け」というのがセオリーなわけでして(というか、知財関係よりもむしろ金融関係なんかの方が日常茶飯事なのではないでしょうか?)、日々我々はそれを実践してますので、今後は、(今まで以上に)「監督官庁のいうことを鵜呑みにするべからず」ということになるのでしょうか(正直、「条文上必ずしもそうは読めませんが、○○省の公式解釈では〜〜ということになってます。」という論点は各分野で結構多いような…)。。
なんせ文献としてしっかり明記されてる解釈ですら今回みたくひっくり返っちゃうわけですんで。

あくまで想像ですが、債務者は、単純に条文だけを確認して(あるいは、「公表後50年」という結論部分だけの理解で)、ある意味安易に(よくいえば「条文の文言に素直に」)PDと判断し、販売を決断したものと思われます。
一方で、保護期間を公表後70年に延長する改正法が施行されたのは、2004年1月1日で、改正法の立法趣旨等の詳細は、施行より半年近くも前に(※施行後でしたらまた別論ですが)、コピライト2003年8月号等で解説されているわけでして、そこではしっかり「1953年公開作品の保護期間は(PDにならずに)20年間保護期間が延びる」と明記されてます(多分、コピライトの原稿は、法案提出時の説明資料の使い回しと思われ、つまり実質的な立法者意思なわけです)。
これを読めば普通はPDになるとは考えないし、債務者が仮に上記記事をちゃんとチェックして、それでも「文化庁は間違ってる!」と判断したとまでは正直思えません(もしそうなら、なかなかのチャレンジャーでしょう)。
なんかそれ考えると、何か正直者が馬鹿を見る的な印象を受けて、個人的には正直解せません。

「正直者が馬鹿を見る」とありますが、正直者は著作権法の条文をそのとおりに解釈して廉価DVDを販売した会社のほうでは?
法律の条文に書いていない見解が有効という、法律関係の仕事をしてる人しか知らないような慣習が横行している方が問題だと思います。そういう見解があるならちゃんと条文に書いておけばいいのに。

それにそもそも著作権の存続期間50年(or70年)というのは、作者が死んだ日(or法人著作物なら公表した日)の次の日から、ではなくて、死んだ年(or公表した年)の翌年からなんです。2006年1月1日に作者が死んでも12月31日に死んでも、2007年1月1日から数えて50年なのです。著作権の存続期間の発生にそれだけ余裕を見ているわけです。この余裕がなければローマの休日著作権は明らかに切れているはずだと思うんですよね。

WikipediaのライセンスはなんでGFDLなんだろう?と考えてみました

結論からいうと、WikipediaのライセンスがGFDLなのはスジが通っていると思いました。(再利用しにくいけど。。。)

会社でWikipediaのデータを使えないか、という話がでて、GFDLを読んでいるのですが、周囲の反応は「こんなライセンスで本当につかえるの?」という感じ。会社の人に「なんでこんな長々と書くんですかねぇ。自由につかってくださいとだけ書けばいいのにねぇ」と言われました。私もGFDLの条文とWikipedia:著作権を読んでいて頭痛がしてきました(_ _;

で、なんでGFDLにしたんだろう?とつらつら考え始め・・・
まず、Wikipediaに書き込む人ってどう言う人なんだろう?と考えてみると、個人でホームページをつくって、なおかつそのコンテンツとして「おいしいラーメン店マップ」やら「お気に入りのアーティストの情報」やらを書き込むタイプの人ではないかと思いました。
最初は自分の情報整理用のつもりがいつのまにか熱がはいってさらに多く、詳しく、新しく、正確にとデータベースの更新に情熱を傾けていきます。しだいに自分のサイトに固定ユーザーもついてきて、手が抜けなくなってきます。ですが、このころになるとそろそろ同じテーマでサイトをつくるのに飽きて来て、更新が面倒になり始めているのです。でも固定ユーザーもいるし、サイトを閉じるのはもったいない・・・などと思っている頃、ネットサーフィンしていたら自分と同じテーマでより詳しいサイトを発見!一気に自分のサイトを更新する気をなくし、放置、せっかくつくってきたデータベースは陳腐化してネットのゴミデータに。。。(というか、自分がそういうタイプだ)

そういう人たちがWikipediaを見たら「これは便利!」と思うのではないでしょうか。自分の知っていることだけ書いておけば、あとは他の人が追記してくれるのですから。飽きて自分でやめても他の人が書き続けてくれるので気が楽です。同じテーマに関心をもつ同行の士も見つかるかもしれません。

で、自分がある程度書いたデータに他の人が追記してくれてさらにいいものになった場合、そのデータをつかいたいですよね。でも、

  • 自分「追記ありがとう! これボクのサイトでもつかっていい?もともとはボクが書いたんだし」
  • 追記者「えっ!ダメ!追記したんだからこのデータはもうこっちに著作権があるんだ。ダメ!」
  • 自分「ガーン!!! (>o<)」

という事になったら凹みますよね〜。

こういうことを避けるためには、ただ「自由にお使いください」というライセンスではなくてGFDLに意味があるのだろうなあ、という結論にとうたつしました。

でも、GDFL分かりにくいです(;_;)
特に履歴の扱いが。。。

GNUは共同開発、共同編集のためのライセンスだと思う

上記のことを考えているうちに気がついたのですが、GNU系のライセンス(GPL,GFDLなど)ではソースや文章を再利用する人が何らかの改変をして使用することが前提になっているのではないでしょうか?
だから、あんなに細かい条文が必要なんだと思いました。
GNUが始まったころは多分他人のソースを自分の環境で改造してつかうのが当たり前で、そのためにはライセンスであれこれ決めておいたほうが、配布する側も改造する側にもよかったのでしょう。

今、オープンソースだからといって自分でソースをカスタマイズする人はあまりいないと思います。ソースの改造をせず、コンパイルして使うだけの人にとってはGPLの細かい規定はほとんど必要性がなくて「何これ?使いにくい!」「『自由に使ってください』とだけ書けばいいのに」と思われてしまいます。

なので、オープンソースのコードに何かライセンスをつける場合、
「改造、変更したらフィードバックしてね!」という気持ちがある場合はGPLGFDLを使い、
「フィードバックは別にいらないよ」という場合はBSDライセンスなり、MITライセンスなりを使うとよさそうです。

雑誌や書籍でGPLについての説明を読むと、GNUの思想が紹介されていて「フリーソフトウェア運動に参加するためGPLを使いましょう」といったことが書かれていることあるのですが、歴史や思想の紹介よりも、GPLGFDLは共同開発、共同編集のライセンスとして紹介されたほうがわかりやすいのではないでしょうか。